最終話 

ほしかったものがあった
ひと安心で再出発。ここまで来ると、道の両側に雪の璧ができてる、というよりも掘られたみぞの底を、そう、ボブスレーのコースを走ってるみたい。
この道、確か“雪国街道”って名がついてたナ。その詩的な名前がピッタリの、幻想的な光景が展開していく。関東平野の住人にはため思が出ちゃう、そんな感じで、眠気もフッ飛んだ。
もう、日本海は、手を伸ばせば届く距離にある。
新井町。「7:42、256。0q、−2℃」。直江津まであと20qぐらいか、1時間かかるかナ? なんとはなしに心ははやっている。
町の中では道路の真ン中からビューッと水が出ている。確かに雪は溶けてるけど、20pぐらいの水たまりができていてブーツがグショグショ。おまけに対向車が溶けた雪+水を浴びせてくれる、ミジメ虫。
上越市。「8:31、267.9q、0℃」。あとチョイ。でもすごいネー、メインストリートは普通なら4車線+αなのに、今は道の両わきに雪のの山ができている。端っこをオタオタと走る俺のすぐそばを、プォーン、シャラシャラーと事が走り抜ける。もう少し気をつけてヨ、こっちは必死なんだから。
人通りも多くなって、俺に異端者を見るふうに、脱い視線を投げつける。でもミゾレまじりの雪が降り、シールドを通して見る世界はファンタスティック! 気温も上がり、少しは余裕も出てきたみたいだ。
直江津市に入る。市内には向かわず富山方面へ。不思議と直江津の道には雪がない。トンネルを抜け出ると右手に直江津港、そして突然、視界に割り込んできた日本海の存在!
やったァ、着いたぜ!! 海岸通りの駐車場にGSを入れる。目の前にはも“冬の日本海”が確かにあった。「8:32、276.8q」気温は2℃。8時間半か‥‥。
しかし、なんて色だ、たとえようがない。今の感触はとても言葉にはならない。
大陸から吹きつける風が泣き、雪がアラレにかわり、水平線の舞台では、灰色の雪がわき上がり不思議な形に変化して死んだ。“動”じゃない、変化し続ける一瞬の“静”。体中の力が抜けていく。
もうなにもほしくない、いつまでも海を見ていたい。荒々しい海とは正反対に、俺の中には“安らぎ”があった。満たされたって気分だ

ノンストップの帰り道
30分が過ぎた。海鳴りをもっと聞いていたいがそうもいかない。また300qを走らなきゃならないから。
直江津の街に入ってみる。イイ感じの街並みで、歩いたら楽しそう。
雪解け水で一面水浸しの路地で、赤いホッベをした女の子なんかが遊んでいる。やっぱり古河の街とは全然違ったふんいきがある。港にも行ってみる。あんまり活気はなく静かだった。カモメが飛んだ瞬間をねらってGSをパチリ。しばらくブラブラと市内を走っていたら、10時近くなった。帰ろう。
妙高に近づくとかなり渋滞している。200台くらいの車を抜き先頭に出たら、なんと道路封鎖。紫色いルーチェの兄ちゃんが係の人に盛んに食いついてるが、俺は焦ってもしょうがないのでGSの上でウトウト、15分ほどしたら解除になった。
もう道路にはほとんど雷はなく、朝の状態がウソみたいだ。ただ一心に家に向かうのです。「俺は帰るんだ!」ってモーメントにしたがって、ひたすらスロットルを開け続ける。空腹感もなく(食ったら走れなくなったろう)、ただ慢性の眠気と戦うのみ。前を走ってる車を抜き去り、信号では一番前に出る。その走りに思考はなく、条件反射的なものだ。
軽井沢でガスを入れたら8リットルあまり入った。さすがに燃費も落ちてる。碓氷峠を下ったのが1時30分、かなり気温が高くさらに眠くなり、なんと伊勢崎市から尾島町までは走った記憶がない!という半居眠り運転。
あと20q、15q、6q、‥‥もう半分死んだ気分になった自分の体にカツを入れ帰って来ましたマイタウン、古河。4時16分、トリップメーターは580qを超えたところ。
いつもなら旅の終わりには一抹のむなしさを感じるが、今はただふろに入って寝たい。
とにかく終わった!

◆データ◆
<全走行距離 584q>
<平均燃費 22q/l>
<全費用 2,800円>


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*読んで頂いてありがとうございます。昔の日記のような恥ずかしさです。これはHPを立ち上げてくれたW/Bのメンバー  が全文手打ちで転記して載せて貰ったので、恥ずかしながら・・・出させていただいてます。

★この頃を思い出しました・・・・
 19歳の時、なぜか毎日「あせって」ました。希望する学校(メーカー系の専門学校、創業者のファンだったので進学したかった)を落ち、もちろん私立の自動車整備専門学校という選択肢はあり、両親も認めてくれていたものでした。しかし、その試験日に僕はバイクで逃げちゃったのです。このままその専門学校に進学するのは「違う」と漠然と思いとった行動です。逃避だったかも知れません。そして、そのまま卒業してしまい、卒業式の翌日父親から「働かないのなら、出て行け」と当然の告知を受けて、もちろん自分もそう思っていたところですが、就職先を探す方策もないので、職業安定所で見つけた隣町の自動車整備工場に面接に行き、就職を決めました。

 高校は機械科で、2年3年生と原動機クラブという内燃機実習室というとこを占有して遊んでるクラブの部長をやり、小学校3年から車の運転を覚え、自動車部に所属し(もっぱら校庭内を乗りまわすだけでしたが)、バイクのエンジンも高2のときすでに友人の(!)CB90のクランクケース交換を行い、自分のTL125などもバラシてなどの整備は朝飯前!しかし、「自動車修理工場」の現場は厳しく、プロとは何かを思い知りました。

 同級生が皆な入社や入学する前から職場に通い、下廻りの洗車でビシャビシャになり、油だらけになる毎日が始まり、そのなかで「よし10年で独立しよう!」と決めたのです。高校時代しなかった自主的な勉強をし、仕事が終わると先輩の板金屋さんでラリー車のデフを組んだり、ミッションをバラシたりという会社ではやらせてもらえないない仕事を試し、入社半年で3級のガソリンの学科に合格したので、その後の半年間毎日曜日を実技免除の講習に宇都宮に通う(土曜日の夜はラリークラブの練習会でナビで乗って帰ったら寝ないで講習に行き)講義中に寝る(本来の国家試験を先に合格していたので、あとは講習の出席時間と科目のテストが合格で無事終わればという気楽な講習でしたで)という1年を過ごしました。早く1人前になりたかったのです、チャンと就職した友人や進学した同級生に恥ずかしさに似たコンプレックスがあったのかも知れません。

 多分、仕事は今客観的に考えて始めたばかりの小僧の割りに「良く出来てた」と思います。仕事の内容で1年先輩を追い越し、1人で重機のエンジン修理の現場などに出してもらってました。しかし、19の誕生日を迎える頃、社会人でまだ1年しか経っていない2月、なぜか「こんな程度じゃ駄目、もっと、出来る様にならなくちゃ・・・」とアセっていたのです。それは、多分早く一人前になって手紙をやりとりしていた(遠方だったので年1、2回しか会えなかった)女の子に、早く1人前になってイイかっこしたかっただけだったのでしょう。「10年で独立しよう!」もコンプレックスの裏返しの、今に見てろ〜という、拗ねた感情だったと思います。

 その19歳になって、18と何も変わらない自分に嫌気がさして、なんか叫び出したい気分が「ロードバイクで雪道を走り、冬の日本海を観て帰る」というツーリングを行なわせたのです。たまたま、日本海から吹き寄せる海水混じりの雪が舞う駐車場で「俺もバイク乗るけど、冬の間は冬眠だよ、どこから?へ〜すごいね、ツーレポで投稿したら?」と話しかけられたのがきっかけで、モーターサイクリスト誌に投稿。そして、大賞を受賞することになりました。大賞受賞時の投稿レポートの1つが後に僕の人生とガレージハイブリットがオフロードショップになる大きな影響を与えた、針谷宏君(次の年の準大賞でした)の作品でした。選ばれたのは偶然(編集のかたの好み)だと思いますが、これを通して知り合った針谷君や秋葉さん、そして北海道や沖縄で出合った旅人達は僕の人生に「必然」だったのかもしれません。

 この後、その会社の仕事を充分観て、3級整備士にもなり、皆既日食のあった半年あまりたった夏に旅に出たくなり退職しました。社長に引きとめられてチョット気分が良かったけど「お金貰って勉強できてラッキー」と思っていた、整備士としては見込みがあったかも知れない小僧は、実は出来損ないの「従業員」だったのです。その夏の日本海はとても穏やかで優しい海でした。その後は「長沢商会(多くのバイク屋やメカニックを輩出した)」が忙しいのでバイトで手伝っている時に、卒業時落ちた学校の系列の四輪販売店から呼ばれて入社、幸運なことに当時はまだあったSFに出向させて貰った後、実力以上の部署を任せて頂き整備技術+営業的なものを学ぶこととなりました。勝手なことをさせて頂きましたが23歳で自分の名前で認証工場を任されるまでして頂きました。やはり「良い従業員」にではなかったので、辞めてしまいました。最後は民間の整備工場で工場長を務め、目標と決めた10年を2年前倒しに「バイク屋」として独立したのです。

 紙面で活字になったのは、詩を書いたりこのツーリングレポートだったのが始まりだったりします。しかし、その後依頼ツーリングレポートや最近仕事となった専門誌での書く仕事とは違い、稚拙ではあるけど確かに19歳の自分が居たんだ、と子供がその年にあと数年となる今、改めて懐かしさを覚えます。
 2006 HP改定時に記 金子幹典