最終話 ほしかったものがあった ノンストップの帰り道 |
*読んで頂いてありがとうございます。昔の日記のような恥ずかしさです。これはHPを立ち上げてくれたW/Bのメンバー が全文手打ちで転記して載せて貰ったので、恥ずかしながら・・・出させていただいてます。 ★この頃を思い出しました・・・・ 19歳の時、なぜか毎日「あせって」ました。希望する学校(メーカー系の専門学校、創業者のファンだったので進学したかった)を落ち、もちろん私立の自動車整備専門学校という選択肢はあり、両親も認めてくれていたものでした。しかし、その試験日に僕はバイクで逃げちゃったのです。このままその専門学校に進学するのは「違う」と漠然と思いとった行動です。逃避だったかも知れません。そして、そのまま卒業してしまい、卒業式の翌日父親から「働かないのなら、出て行け」と当然の告知を受けて、もちろん自分もそう思っていたところですが、就職先を探す方策もないので、職業安定所で見つけた隣町の自動車整備工場に面接に行き、就職を決めました。 高校は機械科で、2年3年生と原動機クラブという内燃機実習室というとこを占有して遊んでるクラブの部長をやり、小学校3年から車の運転を覚え、自動車部に所属し(もっぱら校庭内を乗りまわすだけでしたが)、バイクのエンジンも高2のときすでに友人の(!)CB90のクランクケース交換を行い、自分のTL125などもバラシてなどの整備は朝飯前!しかし、「自動車修理工場」の現場は厳しく、プロとは何かを思い知りました。 同級生が皆な入社や入学する前から職場に通い、下廻りの洗車でビシャビシャになり、油だらけになる毎日が始まり、そのなかで「よし10年で独立しよう!」と決めたのです。高校時代しなかった自主的な勉強をし、仕事が終わると先輩の板金屋さんでラリー車のデフを組んだり、ミッションをバラシたりという会社ではやらせてもらえないない仕事を試し、入社半年で3級のガソリンの学科に合格したので、その後の半年間毎日曜日を実技免除の講習に宇都宮に通う(土曜日の夜はラリークラブの練習会でナビで乗って帰ったら寝ないで講習に行き)講義中に寝る(本来の国家試験を先に合格していたので、あとは講習の出席時間と科目のテストが合格で無事終わればという気楽な講習でしたで)という1年を過ごしました。早く1人前になりたかったのです、チャンと就職した友人や進学した同級生に恥ずかしさに似たコンプレックスがあったのかも知れません。 多分、仕事は今客観的に考えて始めたばかりの小僧の割りに「良く出来てた」と思います。仕事の内容で1年先輩を追い越し、1人で重機のエンジン修理の現場などに出してもらってました。しかし、19の誕生日を迎える頃、社会人でまだ1年しか経っていない2月、なぜか「こんな程度じゃ駄目、もっと、出来る様にならなくちゃ・・・」とアセっていたのです。それは、多分早く一人前になって手紙をやりとりしていた(遠方だったので年1、2回しか会えなかった)女の子に、早く1人前になってイイかっこしたかっただけだったのでしょう。「10年で独立しよう!」もコンプレックスの裏返しの、今に見てろ〜という、拗ねた感情だったと思います。 その19歳になって、18と何も変わらない自分に嫌気がさして、なんか叫び出したい気分が「ロードバイクで雪道を走り、冬の日本海を観て帰る」というツーリングを行なわせたのです。たまたま、日本海から吹き寄せる海水混じりの雪が舞う駐車場で「俺もバイク乗るけど、冬の間は冬眠だよ、どこから?へ〜すごいね、ツーレポで投稿したら?」と話しかけられたのがきっかけで、モーターサイクリスト誌に投稿。そして、大賞を受賞することになりました。大賞受賞時の投稿レポートの1つが後に僕の人生とガレージハイブリットがオフロードショップになる大きな影響を与えた、針谷宏君(次の年の準大賞でした)の作品でした。選ばれたのは偶然(編集のかたの好み)だと思いますが、これを通して知り合った針谷君や秋葉さん、そして北海道や沖縄で出合った旅人達は僕の人生に「必然」だったのかもしれません。 この後、その会社の仕事を充分観て、3級整備士にもなり、皆既日食のあった半年あまりたった夏に旅に出たくなり退職しました。社長に引きとめられてチョット気分が良かったけど「お金貰って勉強できてラッキー」と思っていた、整備士としては見込みがあったかも知れない小僧は、実は出来損ないの「従業員」だったのです。その夏の日本海はとても穏やかで優しい海でした。その後は「長沢商会(多くのバイク屋やメカニックを輩出した)」が忙しいのでバイトで手伝っている時に、卒業時落ちた学校の系列の四輪販売店から呼ばれて入社、幸運なことに当時はまだあったSFに出向させて貰った後、実力以上の部署を任せて頂き整備技術+営業的なものを学ぶこととなりました。勝手なことをさせて頂きましたが23歳で自分の名前で認証工場を任されるまでして頂きました。やはり「良い従業員」にではなかったので、辞めてしまいました。最後は民間の整備工場で工場長を務め、目標と決めた10年を2年前倒しに「バイク屋」として独立したのです。 紙面で活字になったのは、詩を書いたりこのツーリングレポートだったのが始まりだったりします。しかし、その後依頼ツーリングレポートや最近仕事となった専門誌での書く仕事とは違い、稚拙ではあるけど確かに19歳の自分が居たんだ、と子供がその年にあと数年となる今、改めて懐かしさを覚えます。 2006 HP改定時に記 金子幹典 |